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新事務所の見学レポート(2008年4月7日)
4月7日(月曜日)の午前中、新事務所となる昌平橋ビルを見学に行きました。
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JR御茶ノ水駅 | 聖橋より新事務所方面を望む |
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昌平橋ビル外観(昌平橋より) | まだ工事中の新事務所 |
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事務所正面には神田郵便局が見える | 窓の外を中央線が走っている |
おまけ
事務所脇の昌平橋側は小さな公園になっていました。
説明には「千代田区町名由来板」として次のように書いてあります。
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神田旅籠町 この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。 |
江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに
力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道
で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町
が旅篭町だったのです。 しかし、天和二年(1682)に江戸で大火災が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名 な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅篭町はこの火災で類焼し、北側の 加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694)には、浅草御門 の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に 旅篭町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869)には、昌平橋と 筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅篭町三丁目と改称されました。 さて、旅篭町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消していま す。『諸問屋名前帳』によれば、嘉永(1848〜1854)のころまで残っていた旅籠は、わ ずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていったことがわかり ます。街道筋の宿場町として誕生した旅篭町は、その後、活気あふれる商人の町とし て成長をとげたのです。 |
<報告 hirayama>